日本海の中央に大きく突き出した能登半島の突端に位置する輪島市は、現在の人口が3万人足らずの小さな街ですが、
堅牢優美な漆器「輪島塗」の産地として、多くの人々にその名を知られています。
輪島に輪島塗が発展してきた理由はさまざまあると考えられます。
まず、近隣にアテ、ケヤキ、漆、輪島地の粉(じのこ)などの漆器の素材となる良材が豊富にあったこと。
早くから日本海航路の重要な寄港地として、材料や製品の運搬に便利であったことなどです。
しかし、その最も大きな理由は、輪島塗の生産・販売に携わってきた多くの人々が、輪島塗の品質に誇りを持ち、技術を磨き続けて今日まで受け継いできたことにあるといえるでしょう。
今日も、輪島塗は100工程を超える丁寧な手仕事の積み重ねで作られています。
昔と変わらぬ工法は一見非効率とも思えますが、お客様の御注文に細やかに対応して高品質の漆器を納める為に、最も適応した製法であると言えましょう。
各工程に携わる職人が、長年にわたって試行錯誤を繰り返して決定した工程は、省力化の余地を見つける事ができないほどに合理的に洗練されたものなのです。
その工程は、修理がしやすいように、とも考えられています。
修理やメンテナンスを施しながら、代々使い続けて頂きたい。
輪島塗は、そんな漆器です。
使い捨てが見直されている現代にこそ、輪島塗という選択を。
輪島漆器大雅堂・沿革
大正11年 初代若島平吉(現社長の祖父の兄)が、漆器業を始める。
大正12年 二代目若島登(現社長の祖父)が、前身である「若島屋漆器店」を開設。
当時は道路どころか交通手段も未発達、塗師屋はふろしき包みを担いで、もっぱら徒歩で全国を行商する。
このころ鉄道は、輪島まで開通しておらず、背中や両手に荷を沢山背負い、午前2時頃輪島を出発して、20kmばかり先の穴水へ歩いていき、そこから船に乗って七尾へいき、汽車に乗って金沢へ出て、北陸・信越と乗り継ぎ、翌朝東京・上野へ到着した、そうで、輪島から東京まで、30時間の旅でありました。
昭和44年 三代目若島量平(現社長の父)が、輪島漆器大雅堂(株)を設立。
三代目は、輪島で初めて、百貨店における展示会・外商販売を始める。
この頃、道路がつながり(親不知などはまだ簡単に越えられはしなかった)、車での行商ができるようになった。
そのため、今まで持ち回れなかった、輪島塗大型家具(座卓・屏風・飾り棚等)が、全国に販売されるようになった。
昭和61年 三代目が亡くなり、四代目若島終子(現社長の母)が後継する。
平成14年 現社長若島貴三夫(若島基京雄)が五代目に就任。
既存の製品に飽きたらず、積極的に新製品を開発しながら、販路拡大に努め、輪島塗の保存・継承に努める。
現在は、道路も整備が進み車も進化して、東京までは8時間ほどで行けるようになりました。
輪島には能登空港もできて、飛行機なら東京までは1時間です。
大変近く便利になりました。